ここから本文です。
農業技術・食文化
讃岐弁の“えらい”は「偉い」ではなく、「しんどい」「つらい」という意味。
米づくりも塩づくりも「えらい仕事」、けれども、とびきりの“うまい”笑顔に出会えます。
讃岐自慢の新米と瀬戸内の塩で極上の「塩むすび」ができあがり。
稲刈りの風習
水はけの悪い田んぼでは、「ヨケガリ」などといって、田んぼの中央や隅の稲を5株ほど刈り取り、そこに溝をつけて水はけをよくし田んぼを乾かします。
稲の刈り始めは、鎌を使って刈り取っていたことから、「カマハジメ」「カマカケ」「カマイレ」。ですから、稲の刈り終わりは、「カマアゲ」「カマジマイ」です。刈った稲は、ベタボシ(地干し)やハゼボシ(稲架干し)で天日に干します。この稲の取り込みが終わった日か、モミの取り込みが終わった日を「オカイレ」と呼びました。
脱穀機が登場するまでは、カナバシ(千歯こぎ)の櫛の間に稲穂を通し、モミを落としていました。脱穀が終わると「ニワアゲ」といって、新米で“カキマゼずし”などを作ってお祝いをします。機械化が進んだ今では、消えゆく風習や言葉です。
稲刈り風景
「もみすり機」
高松市元山町の農家、長尾さんのお宅では、秋になるとむしろを広げ、もみすり作業をしていました(写真は昭和60年10月の撮影)。
もみすりは、稲穂からモミを取る脱穀の後に、今度はモミからモミガラを取り除いて玄米に仕上げる作業。写真には、もみすり機のほか、藁などで編んだ敷物「むしろ」や竹などを編んでつくる「箕(み)」も写っています。さぬき弁で「けんど」と呼ぶ「ふるい」なども昭和60年代ころは、まだよく使っていました。
江戸時代は土臼を使っていたというもみすりは、昭和時代になって近代式もみすり機が登場したということです。
もみすり風景
塩づくり
瀬戸内海沿岸ではその昔から塩づくりが盛んに行われてきました。古くは、海藻についた塩を取る「藻塩焼き」が行われ、やがて、砂を利用する方法に変わり、「揚げ浜式塩田」や「入り浜式塩田」が生まれ、讃岐では盛んに塩づくりが行われ、昭和11年の生産高は全国生産の約30%をも占めていました。これも、やがて「流下式塩田」、「イオン交換膜法」と工業化され、昔ながらの塩づくりは消えていきました。
直島の沖に浮かぶ屏風七浦の一つ屏風島から陸続きの喜兵衛島には、師楽式と呼ばれる古墳時代の製塩土器が残り、製塩のための炉の遺跡があります。「喜兵衛島製塩遺跡」は、国の史跡名勝天然記念物に指定されました。
喜兵衛島/島の砂浜からは、師楽式土器が出土します。南東の浜では、炉が5基以上確認されたそうです。
復元塩田が伝える塩づくりの歴史
宇多津町はかつて日本一の「塩の町」として名を馳せていました。塩田の歴史は江戸時代に始まり、明治31年には宇多津町の海岸線は塩田に埋め尽くされました。しかし、技術の進歩により、昭和46年にイオン交換膜法での製塩が始まり、昭和47年に塩田と製塩業は廃止されます。約230年にわたって町を支えてきた「塩づくり」の知恵と技を後世に伝えようと、昭和63年、宇多津臨海公園の一角に「入浜式塩田」が復元され、塩田とかやぶき屋根の釜屋で昔ながらの塩づくりを続けています。隣接する宇多津町産業資料館「うたづ海ホタル」では、映像で塩づくりの歴史や宇多津町を紹介。まろやかなコクがあると評判の「入浜式の塩」はここで購入できます。塩づくりの体験(要予約)もできます。
うたづ海ホタルと復元塩田うたづ海ホタルと復元塩田/宇多津臨海公園内にある、宇多津町産業資料館「うたづ海ホタル」と復元塩田。
あげ水/海水を沼井(ぬい)という台の中に入れる「あげ水」という作業。担桶(にないおけ)を使い60~70kgの海水を運びます。
入浜式の塩/復元された入浜式塩田でつくられた塩はうたづ海ホタル等で購入できます。
このページに関するお問い合わせ