ホーム > 組織から探す > 農村整備課 > ふるさと文化たからばこ 2016 > [伝統文化] ハレの日の楽しみ、農村歌舞伎と文楽

ページID:12714

公開日:2020年12月10日

ここから本文です。

[伝統文化] ハレの日の楽しみ、農村歌舞伎と文楽

伝伝統文化

昔の暮らしは手間の掛かる手仕事ばかり。
苦しい仕事の合間に見つけた楽しみに、村中盛り上がったことでしょう。
今に伝わる先人の娯楽、家族で笑顔になれる舞台です

中山農村歌舞伎の写真

中山農村歌舞伎

伝島の農村歌舞伎

海運が盛んだった昔、小豆島の人々は大阪にも時折出かけていました。テレビも映画も無い時代、そこで目にした上方歌舞伎の絢爛(けんらん)たる舞台は、どれほど島の人々を魅了したことでしょう。醬油(しょうゆ)や素麺(そうめん)の製造も盛んで、暮らしにもゆとりがあったと思われる小豆島。時には、上方から歌舞伎を呼んで楽しんだこともあったようです。記録では宝永3年(1706年)に土庄村で小屋がけの芝居が演じられています。けれども、そのぜいたくは、なかなか続きません。そこで、自分たちで芝居を上演するようになりました。小豆島の島民の手による農村歌舞伎の始まりは、18世紀後半以降と推測され、幕末には常設舞台が33、仮説の舞台まで含むと146もの舞台で歌舞伎が興行されたと伝えられています。

農村歌舞伎 舞台の写真

農村歌舞伎 舞台/現在は、肥土山農村歌舞伎舞台と中山農村歌舞伎舞台の2つが残るのみとなり、国の有形民俗文化財に指定されています。写真は肥土山農村歌舞伎舞台。

 

宝 あなたの残したい讃岐の“おたから”提供 ふるさとおたから情報

「わりご弁当」

現在、小豆島では、毎年5月3日に「肥土山農村歌舞伎」が、毎年10月上旬に「中山農村歌舞伎」が開催されています。
その農村歌舞伎を観劇する小豆島の人々は、「わりご(破籠)弁当」を持ち寄って演目の合間に味わいます。「わりご」とは、木でつくった弁当箱。大きな箱の中に小さな箱が幾つか入っていて、何人分かの弁当を一度に運べるようになっています。
これに、ご飯や酢飯を専用の道具で突き固めた「突き飯」と、煮しめや卵焼きなどの素朴なおかずを詰め合わせます。

わりご弁当の写真

わりご弁当/収穫した野菜なども使ってつくるわりご弁当。家族で集まって楽しむ特別の日のごちそうです。

伝東谷の「祇園座」

讃岐本土においても、寺院の秘仏などのご開帳に合わせて芝居が催され、めったにない娯楽としてにぎわっていました。けれども、テレビの普及などにより見られなくなってしまいました。そんな中、現在も保存会の手で守られているのが、高松市香川町東谷に伝わる「祇園座」です。
1800年代の初め頃、阿波(現在の徳島)へ藍染めの出稼ぎに出かけた若者たちが、習ってきた芝居を氏神さまの祭礼に演じたのが始まりだと伝えられています。昭和30年頃までは、県内外の婦人会などに招かれ、年間30数回も上演を行っていたそうです。一時はずいぶん上演が減りましたが、現在は毎年4月の最終週(日曜または祝日)に平尾神社境内の農村歌舞伎小屋「祇園座」で上演されるなど、再び華やかな舞台を見ることができます。

祇園座の写真

祇園座/香川県無形民俗文化財の指定を受けている祇園座の舞台

 

さぬきのおたから総力取材

女性の人形つかいが魅せる「直島女文楽」

今では「現代アートの聖地」といわれる直島ですが、江戸時代は芸どころとして知られていました。そもそも天領であった直島では、歌舞伎や人形浄瑠璃などの娯楽が普及し、城山には大がかりな装置を備えた舞台があったほど。やがて島の人たちは、淡路島から伝わった人形芝居(文楽)の人形つかいに興味を持ちはじめます。一時は文楽熱が高まったものの明治のころにすたれ、昭和初期まで直島の文楽は途絶えてしまいます。復活を遂げたのは、昭和23年。島の女性たちが集まって一座を結成して人形芝居の稽古を始め、翌年には敬老会で公演を行いました。以降、直島の文楽は、全国的にも珍しい女性ばかりの人形つかいによる「直島女文楽」として広まりました。現在も、女性の人形つかいや語り手が定期的に練習を行って腕を磨き、公演も島内外で年に十数回開催されています。

直島女文楽の写真1 直島女文楽の写真2

撮影:高橋公人

このページに関するお問い合わせ

農政水産部農村整備課

電話:087-832-3879

FAX:087-806-0205