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公開日:2020年12月10日

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平田与一左衛門

平田与一左衛門(ひらたよいちざえもん) 1602年(慶長7年)~1656年(明暦2年)

戦国時代も終わり、藩政時代に入ると、各藩は競って新田開発に力を入れた。讃岐も盛んに新田開発が行われ、そのうちの大野原の開墾は、讃岐の近世における新田開発では、最も大規模なものであった。この開墾をなしとげ、実り豊かな現在の大野原の基礎を築いたのが、平田与一左衛門とその仲間である。

大野原は、現在の観音寺市大野原町でもともと大野原開墾に目をつけたのは、讃岐の水の恩人である西嶋八兵衛であった。当時の大野原は、水利の便が悪く、その名のように広大な原野であった。八兵衛は、この広大な原野を拓き新田として潤すには、満濃池に匹敵する大池を築くことが必要だと考え、旧五郷村(大野原)の南端で、東は地蔵院山、西は鋳物師岡(いもじおか)を結ぶ堤防で柞田川をせき止め、池を築く計画を立てた。そして、寛永16年(1639年)に着工したが、生駒家の内紛により工事半ばで八兵衛は伊勢(三重県)へ去り、工事は中断した。

平田家は祖先が伊賀の山田郡平田城(三重県)に住んだことから平田性を名乗ったが、後に、近江(滋賀県)大津に移った。与一左衛門は、幼名を左平次、またの名を庄右衛門といった。近江は早くから豪商の多い国であるが、平田家も諸国に聞こえた豪商であった。金融を家業とし、諸藩を相手に金を貸す、いわゆる「大名貸し」を行っていた。

領主の生駒家が讃岐を追われた後、西讃は山崎家治が封ぜられ、寛永18年(1641年)にお国入りしたが、その第一の仕事が居城の丸亀城の普請であった。与一左衛門はこの普請に参加するため、手代の木屋庄三郎と出入りの大阪商人、備中屋藤左衛門、三島屋又左衛門の3人を丸亀に下らせた。遠路かけつけたものの落札できず、がっかりした一同が、これに代わる仕事として目をつけたのが、大野原の開墾である。与一左衛門に報告すると大いに乗り気だったので、早速、寛永20年5月(1643年)丸亀藩に大野原開墾の許可を願い出た。

工事は、同年8月、まず水源となる井関池の築造に着手した。井関池由来によると『井関池の築造には、現金200貫目を費やした。銭は大阪で、船積みし、観音寺市の港から毎日、牛車で運搬した。普請が始まると、井関池下には、酒、さかな、もちなどを売る掛け小屋が立ち並んだ。四国はもとより、中国方面からも、讃岐に銭持ちの池普請がある。と伝え聞いて、妻子までも引き連れて滞在し、日雇いに出る者も多く、大変なにぎわいぶりであった。』と伝えている。工事は、7ヶ月後の正保元年(1644年)2月に完成し、同年4月には18.6kmの配水路が出来上がり、126haの開墾用地に62軒の農家が入植した。

こうして築かれた井関池であるが、工事を急いことと工法に問題があったことから完成した年の8月には早くも堤防が決壊、翌年の正保2年2月に復旧したものの、同年7月には大雨のため再び決壊した。さらに、慶安元年(1648年)にも決壊するなど、わずか数年で3回も決壊したため、平田家と仲間の負担は限度を超え、3回目の復旧は目途が立たず、入植した百姓達も動揺し、逃げ出すものも出る始末であった。

このため、承応2年(1653年)まで7回にわたって、丸亀藩にその窮状を訴え、藩普請による井関池復旧を求める嘆願書を提出した。そして、承応3年(1654年)ようやく上訴が受理され、同年1月、現地測量を行い、4月に着工し昼夜兼行して工事を進めた結果、120日の短期間で堤防の復旧と余水吐の修理が完了した。

こうして井関池の創築以来、12年にしてようやく安定した。さらに、寛文2年(1662年)に平田一族が京都から大野原に移住し、開墾に専念するに至って、開墾と村づくりは、ようやく軌道に乗り、大野原の基礎が築かれた。

慈雲寺(旧大野原町)

慈雲寺にある平田与一左衛門の墓

 

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