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松平頼重は、赴任早々400箇所を越えるため池の築造を命じ、これに矢延平六が深く関わったといわれている。平六は、一説では、初代藩主、頼重に従って常陸の国から来訪したといわれているが「松平家登士禄」に矢延平六郎という人物が記録されているほか、矢野部平六、兵六とも伝えられてて不明な部分が多い。しかし、文書や伝承などを総合すれば、高松藩に仕えていた下級武士であったことは確かなようである。平六は「新池」築造の恩人として池の宮に祭られ「ひょうげ祭」の主人公となっているほか、県中部の丸亀市飯山町でも貯水量が100万トンを超える「仁池」築造の恩人として、池のほとりに建立された飛渡神社に祭神として祭られている。平六は武士といいながら、現場の第一線で農民達と汗を流すタイプの技術者で、農民達に広く慕われていたことが伺える。
矢延平六が寛文年間(1661~73年)に築造したとされる「新池」は、高松市の海岸線から南方約12キロメートルの高松市香川町川内原にあり、貯水量120万トンと県下でも有数の規模を誇るため池である。新池の受益地である浅野地域は高台部にあることから水利の便が悪く、たびたび干ばつに見舞われていた。
平六は地域の庄屋衆や農民達と新池築造を協議したが、集水面積が少なく容易に満水できない問題を解決するため、受益地の西側を流れる香東川に水源を求め延々4kmの水路を開作して導水することとした。当時の技術からすると画期的な計画だったと思うが、香東川の上流を起点とし起伏の激しい土地を毎夜多くの農民達に松明を持たせてこれを遠望し、土地の方位や高低を測るなど大変な苦労を重ねたことが伝えられている。
新池が完成して豊かな稔りを迎えたとき、地元農民は、歓喜し平六を尊敬すること領主のごとくと伝えられえているが一方で、この巨大なため池はその位置から下流の高松城を水攻めにせんがためとの戯言が広まり、平六は裸馬に乗せられ隣の阿波国へ追放された。しかし、一説には新池の規模があまりに大きく、藩の経費を浪費した責任を取らされたともいわれている。平六を慕う農民は阿波国まで探しに行ったが結局見つからず、せめて彼の功績に報いようと新池を見下ろす高塚山に小詞を建て、「池の宮神社」とし、毎年旧暦8月3日に祭典を行っている。
彼が築造に関係したと考えられる池は、高松市香川町の新池、丸亀市飯山町の仁池、楠見池、牟礼町の王墓池をはじめとして名のある池だけでも100余に上ったというが、頼重公の時代に406の池が築かれ、そのうちの多くは平六が関係したとも言われることからその業績は偉大である。
晩年は、冨熊村(綾歌町)に住み、池普請に生涯をささげたようである。55歳にして独身の平六は、弟 平次を養子とし、そののち初めて結婚、太郎右衛門が生まれた。74歳の時、病に倒れ、2年後の貞享2年(1685年)死去した。
仁池のほとりに建てられた飛渡神社
高塚山山頂にある新池神社
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