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弘法大師は、宝亀5年(774年)、多度郡方田(かただ)郷屏風浦(善通寺市)で生まれた。12歳になって地方役人を養成する機関である讃岐国学に入学したが、あまりに優秀であったために中央に出向いて役人になるべきと考え、15歳のとき上京して歴史、詩文を学ぶとともに官史となる勉強に励んだ。しかし、たまたまある修験者から密教の「求聞持法」を授けられたことが契機となり、しだいに仏教を志し、延暦12年(793年)20歳のときに出家した。以来、修行を積んだ空海は、同23年(804年)に遣唐使に従い、唐に渡り、長安の青竜寺の恵果和尚から真言密教を授けられたほか、梵語や書法を大いに学んだと伝えられている。
満濃池は、弘仁12年(821年)、弘法大師が築造したと伝えらているが、実際はそれより120年ほど古い大宝年間(701~703年)に、当時の讃岐の国守 道守朝臣(みちもりあそん)によって築かれたといわれている。
弘仁9年(818年)に洪水のため堤防が決壊し、多くの田畑が流出した。このため朝廷は同11年、路ノ真人浜継(みちのまびとはまつぐ)を築池使として派遣、修築にあたらせたが、規模が大きいのと、人足も思うように集まらなかったため、着工して1年たっても、完成の見通しが立たなかった。
満濃池を見下ろす空海像
空海が護摩をたいて祈願した場所
そこで、国司をはじめ関係者が協議した結果、その高徳をうたわれていた讃岐出身の空海(弘法大師)にすがるほかはないと決め、国司 清原ノ夏野が弘仁12年4月に上京して、朝廷に空海を築池別当として派遣するよう願い出た。
同年7月に始まった工事は、水圧を防ぐために堤防をアーチ型にし、台目(うてめ 余水吐)を堅固にするため、その場所の岩山を切り開いて造ったほか、堤防の崩壊防止のためたたきを造るなど、独創的な技術を駆使し、わずか2ヶ月間の短期間で完成した。修築にあたり、空海は、堤の東方にある小さな丘の上に座り、毎日護摩をたき、仏陀の加護を祈った。
また、空海は、仏教だけでなく、博識多才の人であり、唐へ入唐した橘逸勢、嵯峨天皇とともに3筆(さんぴつ)と呼ばれ、平安京大内裏の「応天門」の額を書いたとき、書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の点を書き忘れたことに気付き、筆を投げて点を打ったことから「弘法も筆のあやまり」と呼ばれるようになった。
天長5年(828年)には、我が国初の庶民教育機関の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立し庶民の教育を志した。
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