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公開日:2020年12月10日

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西嶋八兵衛

西嶋八兵衛(にしじまはちべえ) 1596年(慶長元年)~1680年(延宝8年)

今日、讃岐の築池の功労者として第一に名前が挙げられるのがこの西嶋八兵衛である。彼が築造したものの代表的なものには日本最古の人工池である満濃池があげられる。また、高松近辺では、小田池、龍満池などの築造が有名であり、香東川の一本化や春日川新田開発などその業績は枚挙に暇ない。讃岐には、元和7年(1621年)にはじめて来訪して以来、4度訪れている。

讃岐の水利開発の功労者、西嶋八兵衛は、慶長元年(1596年)静岡県で生まれた。伊勢の藤堂藩に仕えていた父九郎兵衛は、体調を崩し療養していたが、旧領主藤堂高虎が江戸へ下るために浜松に宿泊した際に八兵衛を同道して挨拶に行ったところ、八兵衛の利発さが高虎の目にとまり近習役(秘書)として採用された。その後、高虎の指導のもと才能を伸ばし、土木技術などの専門的な技術も身に付け、他藩にも知られるようになっていった。また、政策面にも才能を持っており、26歳の元和7年(1621年)に讃岐生駒藩に出向することになる。

この讃岐生駒藩4代高俊世襲の後片付けのために派遣されたことがもとで、その才能を見込まれた八兵衛は生駒藩に寛永2年(1625年)に客臣として招かれた。

八兵衛が着任した寛永2年の秋に大地震があり、翌年には大暴風雨、次いで3ヶ月もの日照りで飢餓者まで出るというひどい大干ばつに見舞われるなどの災害が相次いだ。「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」といわれ、日照りが続くと水に困窮し、大雨になると鉄砲水が民家や田畑を押し流し被害を出すという讃岐において、治水利水事業は急を要し、着任した八兵衛は、早速、領内を視察して災害の状況を見て回った。八兵衛はこの状況を高虎に詳しく報告し、助言をしてもらう一方、重役たちにも恒久的な治水利水計画について早急な実施を進言、同意を得て着任したその年に早くも事業に着手している。

特に、満濃池は、空海の改修から数百年経ち、再三の決壊や堤防老朽化でほとんど水がめの役割を果たしておらず、元暦元年(1184年)以来、堤防が決壊したままになっていたが、八兵衛により満濃池を嵩上げし近代まで有効なため池にした。その他にも、今日著名なため池のほとんどを手がけ、わずか数年で90余のため池の築造、増築を行うとともに、石清尾山の東と西の両方に流れていた香東川を西の流れ1本にして、現在の川筋とし、氾濫を防いだ。また、高松市の福岡、木太、春日の新田干拓も行った。八兵衛の築いたため池は、かんがいだけでなくこれによって洪水をなくすという防災的な効果を持つ、いわゆる多目的ダムの考えに立っているのが多く、その技術者としての手腕がいかにすぐれていたかがうかがえる。寛永16年(1639年)、八兵衛は讃岐から伊勢に帰ったが、その翌年の寛永17年、生駒家はお家騒動で領地が没収され、高俊は出羽(秋田県)に左遷された。その時八兵衛は、慶安元年(1648年)山城(京都府)、大和(奈良県)の幕府の領地5万石を支配する城和奉行、のち伊賀奉行に展じ、大いに治績をあげた。

大禹謨(だいうぼ)

「大禹謨」は、寛永年間、時の生駒高敏の招きにより、伊勢藤堂藩から派遣された西嶋八兵衛が香東川の氾濫をなくすための大改修工事を行い、東と西の流れを現在の西の流れ1本にした際、工事の安泰を祈り、自ら書いて地中に埋めたものと言われている。

洪水に流されていたのを大正元年、大野中津の住民が川普請(河川工事)の折、拾上げて川岸に安置していたものを、郷土史研究家である平田三郎氏が発見し、現在、栗林公園の商工奨励館の中庭に移設されている。

「禹」は、今から4,000年前の中国において、黄河の氾濫を治めた治水の大聖人であり、西嶋八兵衛は偉大な「禹」にあやかろうとしたものである。

西嶋八兵衛直筆とされる「大禹謨」の碑

「大禹謨」は、このように西嶋八兵衛の精神を込めて香東川大改修の際その地に鎮斎されたもので、その改修により、長く洪水時の氾濫に悩んだ地方民を救い、今日の郷土に大きな利益をもたらし、その基を築いたものである。

「大禹謨」が保存されている栗林公園は、国から「特別名勝」に指定されており、日本三公園に優る我が国随一の名園であるが、その敷地は、西嶋八兵衛が大改修を行う前は、ほとんどが香東川敷地であった。香東川の大改修に併せてその豊富な伏流水を利用し、砂礫の中に本園を築庭したもので、本園の原型は、このとき八兵衛によって造られたと思われる。

 

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