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ひと昔前までは夏が近づくと、どこからともなく現れるハエに悩まされていたものでした。そのため家庭では、様々なハエとり道具が使われていました。
大正8年(1919)に尾張時計製造会社がぜんまい式ハエとり器「ハイトリック」を販売すると、瞬く間に人気商品となり、それに伴い類似品が多く市場に売り出されました。
本資料の使い方は、まずゼンマイ仕掛けで回転する円筒状の板に酒・酢・砂糖を混ぜたものを塗りつけ、ハエをとまらせます。自動回転した後、板の下にある空間にハエを閉じ込めると、ハエはそこから小さな穴を通って、網のある部屋に入らざるを得なくなり、生きたまま捕獲できる仕組みとなっています。
ぜんまい式ハエ取り器大正時代~昭和時代初期
江戸時代に豊田郡井関村(現観音寺市大野原町)で、近隣の五ヶ村の庄屋をつとめ、苗字・帯刀を許されていた佐伯家で使用された足袋の木型。足袋は木綿などでつくられ、儀礼や防寒に用いられました。展示資料は底・内甲・外甲などからなる木型で、それぞれに「拾壹文」(26.4cm・[1文2.4cm])などと墨書されています。他にも同じ年月調製の「拾文半」「九分半」「九分」の木型が伝わっており、当時の家族それぞれの足袋型が用意され、家でこしらえていたことがうかがえます。
足袋の木型明治20年(1887)12月
大正14年(1925)に電気蓄音器が登場する以前、レコードを聴くには、手動によるゼンマイ巻き上げ式の蓄音器を使用していました。
資料本体のラベルには「The IPPONOPHONE」と書かれています。この「NIPPONOPHONE(ニッポノホン)」とは、日本コロンビア株式会社の前身である日本畜音器商会が明治後期に創設されて以来、蓄音器やレコードのレーベル名として使用していたものです。
本資料はロゴマーク・朝顔花形八枚弁などの特徴から「NEW NIPPONOPHONE 25号」と思われます。
蓄音器明治時代後期
(当時のパンフレット等より「畜音器」と表記した。)
枕は頭を支えて安定させるための寝具。世界中のほとんどの文化で用いられており、古代の遺跡からも発掘されている。
形態・製法は多様であり、材質は主として木・石・陶磁器などが使われている。近世の髷(まげ)の発達が、木製の箱の上にくくり枕を乗せた箱枕を生んだように髪形や寝具と深い関係がある。
また時代とともに堅いものから柔らかいものへ、高いものから低いものへと変化した。
【左上】台座付籐製枕…木製台座に籐製の枕をのせている。
【左下】陶磁器製枕・・・「壽僊(寿仙)」と縁起が良い文字が書かれ、中国を舞台とした人物・風景が描かれている。
【右上】船底枕…箱枕の底部分に丸みをもたせたもので、江戸時代後期より広まった。寝返りをしやすく左右に揺れ動くようになっている。箱表面に松や鶴など縁起の良いものが描かれている。
【右下】船底枕…箱枕部分に引き出しがついており、ここに春画を入れることも多く「枕絵」とよばれる所以となった。
様々な形態の枕
戦前の日本では、明治6年(1873)発布の「徴兵令」に「徴兵は国民の年甫(はじ)め二十歳に至るものを徴し、以て海陸両軍に充てしむ者なり」と規定され、男子は兵役につく義務を有していた。
記念盃は、軍に入営した際や、満期となり除隊した際などに製作され、周囲の親しい人たちに配られた。
盃は朱塗りのものもあれば磁器のものもあり様々。書かれている文字から、満州の守備についていたことがわかるものなどもある。
入営・除隊等記念盃
満州守備記念盃
夫が漁で獲ってきた魚を妻が行商する習俗は、瀬戸内各地で見られた。高松市瀬戸内町や徳島県美波町(旧由岐町)ではイタダキサンと呼ばれ、また愛媛県伊予市松前町ではオタタサンなどと呼ばれた。全国的にはササゲ、カタギ、ショイカゴボテなど、その運搬具や運搬方法の姿から呼び名がつけられていることが多い。
イタダキサンは頭にいただく、つまり頭上運搬の姿を言いあらわしたものであり、オタタサンも頭上運搬したことが写真などに残っている。高松市では戦後しばらくまでは、浅底の桶とザル籠からなるハンボを頭にいただき行商していたが、その後、手押しの箱車、自転車の横づけなどに姿を変え、現在に至っている。
展示資料はハンボ(蓋も木製)、包丁、秤である。
高松ではイタダキサンの由来伝承を「糸より姫」伝説とともに語り、また愛媛のオタタサンも「お滝姫」伝説をともなっている。いずれも「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」とよばれる、都から流れてきた貴人が行商習俗の始祖となったという伝説を伝えていることは注目される。
秤・ハンボ・包丁
行商風景
高松市瀬戸内町
テグスを行商して、広く瀬戸内海を回った徳島県鳴門市堂浦の最後のテグス行商船大神丸に積まれていた飲料水用の水がめである。
釣糸であるテグスをはじめ、釣針・重りなどの釣具を瀬戸内海の一本釣漁民に行商するとともに、一本釣の技術も伝えたという。
大神丸は昭和47年(1972)9月まで、瀬戸内海を回って行商した。堂浦には、昭和16年頃は23軒の行商人がいて、4月上旬に堂浦を出発し11月~12月頃に戻ってきたという。大神丸が行商したカミユキと呼ばれる宇野・高松を結ぶラインより東側の行商・寄港地は次のとおりである。
堂浦(徳島県)→引田→北山→庵治→高松→直島(以上香川県)→宇野→岡山→京橋→小串→阿津→水門→西大寺→犬島→久々井→鹿忍→牛窓→虫明→日生→大多府島→頭島(以上岡山県)→赤穂→坂越→相生→大浦→小島→室津→岩見→家島→坊勢(以上兵庫県)→吉田→大部→小部→小江→伊喜末→土庄→小瀬→橘→岩谷→豊島(以上香川県)、そして引田からのルートを巡回する。
水がめ
行商に行く大神丸とその内部
今は呉市に合併され、とびしま海道として橋で結ばれた豊島(とよしま)。このテドウラは、木造船にエンジンが積まれる前、櫓による手漕ぎで操船し漁をしていたときにはいた手袋で、昭和40年頃まで使われたものである。
素手だと手にマメができて漁にならないが、この手袋をつけると摩擦が防げてマメができなかったという。着なくなった古い着物の一部をつづり合わせて作っており、刺し子によって補強されている。また、摩擦で破れてしまったところには、端切れをあててつぎをしている。
テドウラ
今は松山市に合併された忽那諸島の中心的な島、中島(なかじま)。このユビサシは、コブイカ釣りやハマチ、タチウオ釣りの時に、針が大きいため、指を傷めることがあるため、このユビサシを人差し指につけて魚を釣り針からはずした。また、釣り針の修繕の時にも、指を守るためにつけることもあったという。
木綿の布を指輪状にして刺し子をほどこしており、昭和45年頃まで使用した。稀に革製のものを用いる人もいた。
ユビサシ
【写真左】豊島の南の斎島付近でおこなわれたアビ鳥漁の様子(昭和50年撮影)
【写真右】広島県の天然記念物「渡り鳥のアビ鳥」漁師はアビ鳥がいるところには小魚がいて、そこにはタイやスズキもいることから、それを狙って釣り漁をする(昭和50年撮影)
播磨灘に面した明石海峡の西に位置する林崎漁港や明石浦漁港では、各漁村の組ごとにエビスサンや龍神さんが祭られている。今も明石浦漁港では、正月には海に向かって八大龍王の幟が立てられ、漁師の家では餅や洗米、煮干しなどのお供えものが、臨時にしつらえられたお供え箱(棚)に供えられており、海への篤い信仰をうかがうことができる。
本資料は、播磨灘でもタコ漁などが盛んだった林崎で、昭和50年に収集されたものである。当時、調査収集を行った職員の報告には、次のように記されている。
四、五百メートルの、海辺にならぶ漁家の家並に、五ヶ所もエビスサンを祭った小さなほこらがある。そのほこらの前に、木製または石造りの、小さな棚が設けてある。もう十年ほど前までは、この神前の棚にいつも、タコやタイ、サワラの初穂やお洗米に御神酒がたえなかったという。(瀬戸内海歴史民俗資料館『収蔵品紹介』(文高橋克夫)より)
このゴゼンバコは、毎朝、この箱にお洗米とナマス(またはイワシの煮干し)、御神酒を入れてエビスサンや自分の船のフナダマサンに供えるのに使われたもので、昭和40年代後半には、すでにゴゼンバコを使ったその風習はかなり廃れ、ゴゼンバコも失われて収集に苦労したと伝えている。
ゴゼンバコ
明石浦漁港(兵庫県)の正月の臨時の八大龍王のお供え箱(平成28年1月16日撮影)
ノリ養殖が盛んな現在の林崎漁港(兵庫県明石市)(平成28年1月17日撮影)
瀬戸内から九州東海岸ではアワビが、四国や近畿地方の太平洋岸ではホネガイなどのトゲのある貝が、魔除けや疱瘡除けとして家の戸口につるされた。節分の柊のように尖ったもの、チクチクするものや、アワビのような光るもの、または臭いを放つものなどが、魔物や病気を撃退することができると信じられていた。
直島(香川)では、特にアワビの貝に「鎮西八郎為朝御宿」と墨書したものが掲げられた。鎮西八郎為朝は、強弓の使い手で、保元の乱ののち伊豆に流された源氏の武将。
近年の研究では、江戸時代の終わり頃、直島の庄屋が源為朝を主人公にした伝奇小説『椿説弓張月』の作者曲亭馬琴に江戸まで会いに行っていたことが知られ、その影響からこうした墨書が書かれることになったとも考えられている。
小説の中では崇徳院に関連して直島も登場し、また為朝は八丈島で疱瘡神を退治しており、その場面は葛飾北斎の挿絵で描かれている。疱瘡神を退治した為朝の力にあやかろうとしたのであろうか。
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