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学問の神様として知られている菅原道真が国司として讃岐にやって来たのは、平安時代のことでした。
赴任して二年目の仁和四年(八八八年)のこと、讃岐の国はひどい干ばつに襲われて、あたり一面土ぼこりがたち、花のつぼみは枯れ果て、どこもかしこも土が焼け焦げて、稲の苗は煎りつけたようになってしまいました。
さすがの道真公も干ばつのありさまに、どうしてよいかわからず馬を止めて思案にくれていると、その馬さえ疲れ果てて倒れてしまいました。もちろん神社や寺院に雨乞いを祈願させましたが、まるで効果がありません。
そこで道真公自らが、城山(きやま)の神に讃岐の人民が一人残らず救われるように心を込めて祈りを捧げました。すると七日七夜の祈願の満願の日、空がにわかにかき曇り、三日三晩大雨が降り続いたということです。
干ばつから救われた農民達は、喜びのあまり滝宮の道真公の館の前に集まって、感謝の心を込めて踊りました。これが今でも踊りつがれている「念仏踊」のはじまりと伝えられています。
また、「滝宮天満紀」では、道真公が太宰府で亡くなったことを知った讃岐の人々が、うら盆の日に道真公の遺徳をしのんで踊ったのが「念仏踊」のはじまりとされています。
いずれにしても水を待ち望む人々に雨をもたらせてくれた道真公への深い敬愛の念がこめられた踊りです。
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