昭和35年東宮御所の壁画「日月四季図」
突然の宮内庁から新築中の東宮御所に壁画の依頼。
京都に何度も足を運び大和絵に見る実在の風景が感覚的な表現であることを感じ、装飾的な構成や表現に確固とした心構えをもち、古来からの日本絵具に、金泥やプラチナ泥をふんだんに使い、品格のある画面に仕上げた作品です。
こうして彼の進路は順調であり、健康にも恵まれ、次々と仕事をしてきました。
しかし、彼の心の中で大切なものを見失ってはいないだろうかという疑問が現れ、新鮮な心を持って大自然の中に身を置く期間を持ちたいと昭和37年4月18日、夫人と北欧への旅に出ました。
春を迎える喜びの季節から夏の終わりまでの滞在期間中にこころにいだき続けていた親しい風景を見出したのです。そして約2年がかりで作っていた北欧紀行「古き町にて」が完成しました。この本には川端康成氏の心のこもった序文が書かれています。
「オールフスの古い町」(リトグラフ)
昭和43年4月 皇居宮殿の壁画「朝明けの潮」
宮内庁から風景的な題材で、「日本へ来た」という感じを与えるものと示され、海の構想が浮かび、各地の海岸をめぐって、潮風や打ち寄せる波に大自然に息吹、鼓動を感じとり、誰も描いたことのない波を描きたいという彼の情熱を壁画の中に吹き込んだ作品です。
壁画のある部屋は、「波の間」と名づけられました。
いつか京都を描いてみたいと、ずいぶん以前から思っていた彼は、地図を頼りに写生道具を肩から下げて西へ東へと、気の向くまま出かけました。自由で孤独な旅人として自然や風物にじかに心を通わし、相当な数のスケッチを描きました。華麗な祭礼、古風な行事、山間の素朴なまつり、町角に見る古いたたづまいの中の新鮮な感動、旅愁を旅人として京都を見ました。旅人にとって巡りあいこそ幸いであり、いのちです。こうして、京都との巡りあいによっていくつかの作品が生まれました。
比叡山の「曙」 鷹ケ峰の「春静」 祇王子の苔庭に散り敷く落花を描いた「行く春」。
山崎の竹やぶの明るい日差しを描いた「夏に入る」等。
「朝明けの潮」完成間近仮設の大きいアトリエにて
1968年
京都を主題にした連作と、新宮殿の壁画「朝焼けの潮」を殆ど同時に終えた時、こんどは遠くの方からドイツの古都が呼んでいるのを感じました。そして36年振りに懐かしい期待と、不安(戦争を経て、古い町々の面影が残っているだろうか・私のもし失われていたら彼の青春も消え去ってしまうことになる)を抱えて再遊の旅に出かけます。
幸いにもベルリンのように大きく変わった都市もありましたが、小さな町は昔日の姿をよく残していました。彼の胸はそんな町に巡り合うたびに若々しく高鳴ります。
彼には心の中にある形の無いものが、言葉となり、音楽となって聞こえることがあります。
ある時、一頭の白い白馬が、彼の風景の中に、ためらいながら、遠く姿を見せました。昭和48年に描いた18点の風景の全てに、小さな白い馬が現れたのです。
あの白い馬は何を表すのかとよく聞かれたようですが、
-----それは見る人の自由です-----
といつも答えられました。
「湖澄む」昭和47年(リトグラフ)
画家としての歩みの上で、唐招提寺の障壁画を描く機会を与えられたのは、彼にとって思いがけないことでした。この巡り合いを感謝すると同時にこの仕事を完成するのは容易なことではないと彼は思います。唐招提寺に度々訪れ鑑真和上のこと、律宗の根本道場として創建されたこのみ寺の厳格な寺風を想起して、上段の間に山、宸殿の間に海という構想になります。日本の国土の美に引かれて日本へ上陸された和上への想いが日本の国土の象徴としての山と海を描くことになりました。
「山雲」昭和50年(リトグラフ)
唐招提寺障壁画「山雲」制作中
私達の国と海を一つ隔てた隣の中国、その雄大な大陸風景に接し、悠久の文化の厚みに直接触れることは、かなり以前からの彼の希いでした。
彼の希望は、中国側と日中文化交流関係の方々の厚意により叶えられ、3回にわたる中国の旅になります。
彼の旅のスケッチは全てその場で彩色をするのが常でしたが、中国の旅では、ほとんど墨1色で描きました。それは、唐招提寺障壁画第二期を水墨画で描きたいと考えていたからです。
唐招提寺障壁画第二期は取材のために三年間かかってしまったため、構図を纏め、試作をし、本制作をその期限内に完成するのにはかなり困難な仕事になりました。初めての水墨画の大作というのも彼にとって不慣れな条件に加わり、絶対絶命とも言うべき状態に立たされたようです。とにかく、無我夢中で、終始、全身全霊を打ち込み集中度を高めて描いた画です。
桂林にてスケッチ 昭和51年
一つの旅の終わりは、新しい旅のはじまりである。
生きている限り、旅から旅へと私は歩き続けている。
いや歩かされているとの想いが、私には常のものとなって、既に久しい。
何に導かれ、何に誘われて歩かされているのかはわからないが、戦後「残照」から始まった私の道が、唐招提寺障壁画へと繋がってきたのは、あるいは自然であったとも思われる。
時々、道に迷い、また、躓きもしながら遠くから心に響いてくる鈴の音を頼りに、かなり長い旅路を今日まで辿ってきた。
1980年(昭和55年)4月記
『東山魁夷 自然のなかの喜び』(講談社刊)