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公開日:2020年12月10日

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周辺案内

美術館及び周辺の観光・史跡

周辺案内パンフレット(PDF:354KB)

(※ホームページの周辺案内と若干異なります。)

香川県立東山魁夷せとうち美術館の写真香川県立東山魁夷せとうち美術館

東山魁夷の祖父が坂出市櫃石島の出身で、本県とゆかりが深いことから、ご遺族より版画作品270点余の寄贈を受け、これら作品を広く鑑賞していただくため、香川県立東山魁夷せとうち美術館は開館しました。魁夷提案のライトグレー色の瀬戸大橋が眼前に広がり、万葉のロマン漂う歴史的遺産や、瀬戸内海の美しい自然に囲まれ、心の癒しや憩いの場となる美術館です。

瀬戸大橋記念公園の写真瀬戸大橋記念公園

この公園は瀬戸大橋の架橋を記念して造られたメモリアルパークです。入り口からの「水の回廊」を抜けると瀬戸大橋架橋の歴史や技術を紹介・展示した「瀬戸大橋記念館」があります。園内には「芝生公園」や「浜栗林」などの水と緑にかこまれた空間が大きく広がり、瀬戸内海を一望することができます・広々とした展望台からは美しい夜景を望むこともできます。

  瀬戸大橋記念公園ホームページ(外部サイトへリンク)(別窓)

万葉の島 沙弥島の写真万葉の島沙弥島

沙弥島は、旧石器時代から人々の生活の場となり、縄文、弥生、古墳時代の遺跡と古代、中世の遺跡が多数存在しています。万葉の聖歌と呼ばれる柿本人麻呂が立ち寄った場所として有名な島です。また、人麻呂の足跡や万葉集に心をひかれる人が訪ねたり、多くの文化人が訪れる文学の島でもあります。ナカンダ浜などから見る瀬戸大橋の眺望が美しい島としても有名です。

沙弥ナカンダ浜遺跡の写真1. 沙弥ナカンダ浜遺跡(平成元年県指定史跡)

砂浜に営まれた県下でもまれな製塩が良好に残る遺跡で、昭和13年に郷土史家 寺田貞次氏によって紹介されました。縄文遺跡のほか弥生から古墳時代にわたる遺跡があり、県下でもめずらしい敷石炉と焼き塩炉の二種類の製塩炉跡が発見されるなど、貴重な製塩遺跡と考えられています。また、この浜からの瀬戸大橋の眺望は素晴らしいものがあります。

柿本人麻呂歌碑の写真2. 柿本人麻呂歌碑

昭和63年、万葉植物園に香川県国語教育研究会によって「柿本人麻呂歌碑」が建立されました。この碑には人麻呂が沙弥島で読んだ長歌と反歌二首が、刻まれています。書は日展審査員の故天石東村先生により、かなまじり文で全文が書かれています。

人麻呂岩の写真3. 人麻呂岩

オソゴエの浜にある大きな岩は「人麻呂岩」と呼ばれています。人麻呂が岩の近くで死人を見つけ、長歌と反歌二首を詠んだと言われています。長歌は「玉藻よし讃岐の国は」という有名な句で始まります。

柿本人麻呂碑の写真4. 柿本人麻呂碑

昭和11年に坂出市出身の作家 中河与一氏が、沙弥島を訪れる人に、人麻呂を通じて万葉の心を喚起してもらうことを願うために建立されました。当初、石碑はナカンダ浜の東岸に瀬戸内海に向かって建てられていましたが、昭和59年の遊歩道整備とともに、人麻呂が歌を詠んだ人麻呂岩の近くのオソゴエの浜に移設しました。歌碑は歌人の川田順氏の書によります。

愛恋無限文学碑の写真5. 愛恋無限文学碑

坂出市出身の作家 中河与一氏が、昭和10年に朝日新聞に小説「愛恋無限」を連載発表して、愛の尊厳を訴え、日本文壇に新風を起こしました。その小説の最終章の中でここ沙弥島の自然が描かれています。昭和52年全国の有志によって、ギリシャ神殿風の意匠に万葉の花「ヨメナ」を線刻した文学碑が建てられました。設計は、建築家で文化勲章受章者の谷口吉郎博士、碑面の陶板は、備前焼の人間国宝 藤原啓氏による文学碑です。

長崎鼻石棺の写真6. 長崎鼻石棺

長崎鼻の狭い尾根先端部で発見された箱式石棺で、弥生時代後期ころの石棺と考えられています。内部には土器などの副葬品は確認できませんでしたが、県下でも珍しい銅鏃が1点だけ出土し、棺外には弥生土器の壺が逆さまにつぶれて発見されました。

白石古墳の写真7. 白石古墳

ナカンダ浜を見下ろす位置に築かれた古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室墳です。天井石はほぼ失われていますが、沙弥島の古墳では、千人塚に次ぐ大きさのものです。副葬品には須恵器、金環のほかにナカンダ浜遺跡を中心に製塩業で栄えたこの島の長が葬られたと考えられています。出土品は「海の家」に展示されています。

白石古墳広場の写真8. 白石古墳広場

城山に続く高台で、環境省が設置した展望所です。展望所から北の眺望は素晴らしく、間近に与島・本島・櫃石島が見え、遠くは岡山県の鷲羽山や水島工場群も見えます。ベンチや休憩所も設置された展望所です。

理源大師堂の写真9. 理源大師堂

この島で生まれたと伝えられる讃岐の五大師の一人、聖宝理源大師を祀った御堂で、江戸時代に沙弥島の溝渕庄兵衛を始め島民によって建てられたものです。理源大師は、16才で真雅に従って得度し、京都醍醐寺を創建し、修行の道場として仏法をひろめたり、公益事業を興すなどして、修験道中興の祖といわれました。お堂の傍らには、理源大師が産湯を使ったと伝えられる。たらい石が残されています。

千人塚の写真10. 千人塚

この古墳は、沙弥島南丘陵の西尾根先端に位置し、一辺約11m、高さ2m、上下2段の列石で囲まれた方形台状の3~4世紀ごろの方墳です。石室は堅穴式石室が開口していましたが、今は埋め戻されています。昭和45年に県の指定文化財になりました。また、この古墳を取り囲むように、多くの小型墳墓が配置されています。古墳については、平成8年の調査により、従来考えられてきた千人塚本体の陪塚ではなく、古墳時代後期末ごろのものと考えられます。

城山城跡の写真11. 城山城跡

城山は、中世ごろの塩飽水軍の砦か、見張り場所として構築したと考えられる遺構です。山頂を囲んで石垣が張り巡らされ、二段の郭になっています。塩飽諸島は、古くから海上交通の要衝であり、塩飽水軍は、各時代から重要視され、ここ沙弥もその一つであることがこの遺構からもくみ取れます。最近の中世城館などの詳細分布調査でも対象とされた場所で中世の城郭として遺構が良好に残るとされています。

万葉会館の写真12. 万葉会館

郷土芸能など伝統ある文化・芸能や文化芸術サークルなどの練習や発表などを行う施設と昭和62年に建設されました。平成11年、万葉の島をアピールするため、ふれあい館から万葉会館に名称が変更されました。

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