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大正2年
父浩介と兄国三と共に
(中央:東山魁夷)
大正10年 中学1年生
昭和9年 留学時代
スイス、モンブランを望む
「光昏」の大下図を制作
昭和31年
日本芸術院賞授賞式
昭和50年
パリのチュイルリー公園で
椅子との対話
唐招提寺障壁画
「山雲」制作中
昭和51年
桂林にてスケッチ
明治41年 (1908) |
7月8日、船具商を営む東山浩介と妻くにの次男として横浜に生まれる。本名を新吉と称し、幼いころから絵を好んで描き、早くもその才能が開花し始める。 |
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大正10年 (1921) |
13歳 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高等学校)に入学。中学の恩師からの勧めがきっかけで画家になることを決意する。 |
大正15年 (1926) |
18歳 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。夏、信州を旅し、山国の雄大な自然に強い感銘をうける。 |
昭和6年 (1931) |
23歳 3月、東京美術学校日本画科を卒業。引き続き研究科に進み、結城素明に師事して「魁夷」を雅号とする。 |
昭和8年 (1933) |
25歳 東京美術学校研究科を修了。8月、渡欧の途につく。10月、ベルリンに到着。ベルリン大学外国人語学部でドイツ語を学ぶかたわら、足繁く美術館に通う。 |
昭和10年 (1935) |
27歳 9月、父の病気の報に、残り1年の留学期間を断念して帰国。 |
昭和15年 (1940) |
32歳 11月川崎小虎の長女すみと結婚する。 |
昭和22年 (1947) |
39歳 10月、第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞。この作品によって、以後、風景画家として立つことを決意。 |
昭和25年 (1950) |
42歳 5月、はじめて日展で審査員を委嘱される。10月、第6回日展に《道》を出品、好評を得る。 |
昭和31年 (1956) |
48歳 5月、前年の第11回日展に出品した《光昏》によって日本芸術院賞を受賞する。 10月、第12回日展に《松庭》を出品。 |
昭和34年 (1959) |
51歳 11月、第2回新日展に魁夷の祖父が生まれ育った櫃石島を描いた《暮潮》を出品。 |
昭和35年 (1960) |
52歳 4月、宮内庁から依頼されていた東宮御所の壁画《日月四季図》が完成。 |
昭和37年 (1962) |
54歳 4月17月、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドを写生旅行。 |
昭和40年 (1965) |
57歳 1月、日本芸術院会員に任命される。3月、日展理事に就任。 |
昭和43年 (1968) |
60歳 4月、新宮殿壁画《朝明けの潮》が完成。 |
昭和44年 (1969) |
61歳 1月、《朝明けの潮》の制作および前年の「東山魁夷展京洛四季展」によって毎日芸術大賞を受賞。4月から9月にかけて夫妻でドイツ、オーストリアの古都を巡る。11月、文化勲章を受章、あわせて文化功労者に選ばれる。 |
昭和48年 (1973) |
65歳 8月、香川県文化会館にて瀬戸内美術館連絡協議会結成 第1回事業 東山魁夷展を開催、北欧風景、京洛四季、ドイツ・オーストリアの旅、白い馬の見える風景の4つのテーマによる150点余を出品。 |
昭和49年 (1974) |
66歳 3月、日展理事長に就任。(~1975年) |
昭和50年 (1975) |
67歳 5月、唐招提寺御影堂の第一期障壁画《山雲》《濤声》が完成、6月3日に奉納される。 |
昭和55年 (1980) |
72歳 2月、第2期障壁画の三題《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》が完成、6月に唐招提寺に奉納する。 |
昭和56年 (1981) |
73歳 11月、唐招提寺鑑真和上像厨子絵《瑞光》を奉納。 |
平成10年 (1998) |
11月、第30回日展に《月光》を出品、最後の日展出品作となる。 |
平成11年 (1999) |
5月6日、老衰のため逝去。奇しくも鑑真和上と同じ命日であった。 従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。 |
平成16年 (2004) |
1月より横浜美術館、兵庫県立美術館で「東山魁夷展-ひとすじの道―」を開催。 |
平成17年 (2005) |
4月、香川県立東山魁夷せとうち美術館が開館。 |
『東山魁夷 自然のなかの喜び』(講談社刊)
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