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施工中の緊急通水 高松市の自動車給水
香川用水事業の区切りとなる通水イベントは大きいもので、3つあります。
「暫定通水」「本格通水」「全線通水」の3種です。
1つ目の「暫定通水」は、昭和49年5月30日です。
池田ダムについては、計画変更や地すべり事故で工事に遅れが生じ、まだ完成していませんでしたが、昭和48年夏の渇水を経験した地元では、香川用水の通水を要望し、水道用水に限って吉野川から直接ポンプアップし、通水を行ったものです。
起工式
2つ目の「本格通水」は昭和50年6月11日です。
無事池田ダムも完成し、農業用水・工業用水も含めた計画上の水量を通水することができました。
3つ目の「全線通水」は昭和53年6月11日です。
実は、本格通水の50年度に通水していたのは、全線106kmに対し、77kmでした。それから3年後の53年に東かがわ市から観音寺市豊浜町まで全線通水しました。
昭和49年5月30日 通水式
香川用水の幹線水路は、できる限り高位部を通すよう計画しています。それでも、幹線から直接取水できない高位部の水田や果樹園がたくさんあります。もちろん、ポンプで揚水するのは簡単ですが、多額の費用や維持費が必要です。
香川用水概要図には、幹線より高位においても、受益地域があるのを見つけることができますが、これは、水利転換によるものです。
地域の上流に大きい親池を持っているところになりますが、水の振替をすることで下流側同様に恩恵を受けることができるので受益地域とするものです。
すなわち、上流側は幹線から取水せずに、不足する水量を含めた全必要水量を、下流側に優先して親池から取水します。その代わり下流側には、上流側が余分に使った親池の水量も含めて、幹線水路から直接補給します。
旧来の用水慣行にとらわれることなく、合理的、経済的に用水を利用しています。
香川用水の水源・早明浦ダム
早明浦ダムは、高知県嶺北地域である本山町、土佐町に建設されたダムであり、堰堤の高さ106m、堰堤の長さ400mの重力式コンクリートダムで西日本で屈指の大規模ダムです。このダムは吉野川総合開発の中核となる施設であり、総貯水量は、3億1600万m³で、洪水調整だけでなく、四国各県が必要とする用水が確保され、併せて発電がおこなわれており、その恩恵は計り知れないものです。
しかし、ダム建設時には、民家の移転、田畑、山林などの土地790haあまりが湖底に沈むという大きな犠牲もはらっています。
堤頂右岸側に設置されている、四国の地形をかたどった記念碑「四国のいのち」がありますが、これは、当時の高知県知事である溝渕増巳氏の筆になります。文字どおり、早明浦ダムで貯められた水が、「四国各県のいのち」として、四国の繁栄に大きく寄与することが期待されています。
特に、早明浦ダムの水が供給水量の3割を占める、香川県にとっては、完成後も早明浦ダムの管理状況により、生活や社会経済の影響が大きいものとなっています。
池田ダムは、徳島県三好市池田町に建設されたダムであり、堰堤の高さ24m、堰堤の長さ247m、ローラーゲート9門を有する重力式コンクリートダムです。
このダムによって、吉野川の水を堰き止めて、吉野川北岸用水と香川用水への取水を確保するほか、洪水調整、発電を行っています。
池田ダムの建設に関しては、家屋移転は50世帯、水田等の水没が60haに及んでいます。また、工事については、地すべり等による工事中断があったものの、昭和50年に3月に完成しました。
完成時には、ダムサイトに当時の徳島県知事である武市恭信氏の筆による、「かなめ」の碑が建てられています。今後の四国発展のかなめとして、池田ダムが機能するよう期待されたものです。
池田ダム
吉野川総合開発は、戦後の経済復興のために、全国の主要河川にダムを建設し、水力発電しようとすることに端を発するものですが、香川用水事業については、当初は早明浦ダムにより貯えられた吉野川の水を「池田ダム」を経由して分水する計画だけでなく、支流の伊予川に「岩戸ダム」を建設し、観音寺市大野原町に分水する方法や、一度愛媛県川之江市に分水された吉野川の水を海岸沿いに香川に導水する案も検討されていました。この時の「岩戸ダム」については、当時計画されていた「早明浦ダム」より大規模なものでした。
結局、水力発電よりも火力発電を強化するという政策上の理由と、瀬戸内側に大量の分水をすることに対する反対意見もあり、「岩戸ダム」の建設は見送られ、その後、愛媛分水については、「新宮ダム」「冨郷ダム」により瀬戸内側に分水されています。また、香川用水については、「池田ダム」で取水位置を確保し、導水トンネルにより分水することが決定されました。
水系を越える分水、まして県境を越える香川用水の分水事業は、複雑な調整と時間を要するものでした。
香川用水の導入水量のグラフの特長として、期別取水量があります。
工業用水や水道用水は、年間を通じていつも一定ですが、農業用水は、最小毎秒0.5m³から最大11.3m³まで時期によって取水量が異なります。
すなわち、農業の場合は、水稲の生育期間や果樹園の夏季かん水に重点を置き、年間取水量の8割までは、6月から9月にかけて導水し、残り2割については、夏季以外に導水します。
水稲に関しては、6月11日から7月10日の30日間、7月11日から9月15日の67日間、9月16日から10月10日までの25日間に分けて必要な量だけ、取水するようにしています。
幹線水路の設計においては、水位が非常に大事になります。
池田ダム取水工の標高は、87.5m、三豊市財田町の東西分水工の標高は82.4m、東部幹線の中間に位置する古川地点は59mです。古川地点までの平均勾配は、1500分の1(水平距離1500mに対し、1mの下がり)となるよう設計されています。このように、開水路やトンネル、サイホン、暗渠のそれぞれの工法で自然に流下するよう設計するためには、非常に正確な測量が求められました。
山田開水路
遠田川水管橋
その後も、東に延びる東部幹線は、さぬき市の田辺池(34.2m)において、一度、ポンプアップされ、東端の宮奥池(43.5m)まで再度自然流下していきます。西部幹線等も含めた総延長距離106kmを効率的に配水するために、施設の設計については、十分な配慮が必要です。
また、導水トンネルの大きさについても、夏季の最大取水量に合わせて、直径3.7mの大きさに設計され、適正な配水と建設費用の低減化のための工夫が随所でなされています。
金比羅トンネル出口
中央管理所操作室
香川用水事業の工事やその後の管理は、2つ分割されています。
これは、香川用水の事業が、農業用水だけでなく、工業用水や生活用水の都市用水との複合的な開発であったこと、資金調達な面で分割した方が、有利に働く事情があったことによるものです。
結果として、都市用水・農業用水の供用区間である、池田ダム取水工、導水トンネル及び高松市古川分水工までの幹線水路、及び支線の一部については、工事を当時の水資源開発公団(現在の(独)水資源機構)が施工し、その後の管理も同じ団体が行っております。
また、農業用水専用区間である、東西分水工、西部幹線、東部幹線の一部については、当時の農林省(現在の農林水産省)が施工し、その後の管理は、香川用水土地改良区が行っています。
現在も、改修工事・管理については、分割されていますが、香川用水事業においては、両者が緊密に連携を行い、香川用水を維持・管理しています。
開水路を見ると、香川用水の水は非常にゆったりと流れています。
水路の流れは、速くする程たくさんの水が流れるので、水路も小さくて済み経済的です。しかし、流れがあまり速いと危険でもあり、痛みもひどく、逆に遅いと土砂が沈でんします。
香川用水の幹線水路では、開水路で毎秒1mくらい、トンネルやサイホンで1.5m~2.0m程度になるよう設計しています。
したがって、池田ダムの取水工で取り入れた水が、高松市に到着するには約9時間、東かがわ市であれば、20時間近くもかかります。
香川用水の水は、非常に合理的に計算された水量・速さで県下を流れているのです。
岩盤用トンネル掘削マシン
香川用水は、池田ダムに取水施設を設け、ここから讃岐山脈の下600m地点を、8kmのトンネルを貫いて、香川県側に導水します。幹線水路と並んで、徳島県と香川県をつなぐ阿讃導水トンネルは、香川用水事業の重要な工事でした。
この導水トンネルは、当時の水路トンネルとしては、日本最長のトンネルであり、鉄道や道路のトンネルを入れても日本で4番目の長さでした。
当時のトンネルを掘る方法は、さく岩機を使って穴をあけ、一斉に爆破するものが主流でしたが、導水トンネルを掘削する際には、最新のトンネルマシンが使用されました。全長16m、140トンのマシンでした。試行錯誤を繰り返しながらも、下口工事開始である昭和44年12月から3年後の昭和48年2月に貫通し、昭和49年1月にコンクリート巻立が完了しました。
トンネルの形は、徳島側は「馬蹄形」、香川側は「円形」と形が異なり、約1時間10分かけて、水が通り抜けることとなります。
昭和49年にトンネル工事が完了したものの、池田ダムの工事が完了していませんでしたので、吉野川の水はすぐには香川県に流れませんでしたが、大久保諶之丞が夢見た、吉野川導水の実現は目の前となりました。
トンネル内の様子
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